2007-03-09 Fri 03:42
3章 忘れたいことなんて、人間をやっていると幾らでもある。それなのに、銀紙に包んで捨ててしまっても別段困らないと思うようなことでも、脳は覚えている。例えるなら、高校生が教室で喋った内容と同じ会話を、後で携帯で喋っているのと同じ。その分の時間は掛かっていても、とても勿体無いと思うことは無い。しかし、由希はそう思っている。自分に与えられた時間が残り少ない気がしているので、出来るだけ時間を節約して生きようとする。しかし、そうすればするほどに、まるで流砂に捕まった動物が、もがいて自分の命を縮めるよう。
「今晩は」 「え?」 由希に声をかけたのは非番の警官だった。その顔からは、大人の匂いがした。しかし、その割りに若い。恐らく由希とさほど変わらない年だろう。 由希はこの警官と面識があった。 「ああ、お久しぶりです」 「お仕事大変そうだね」 ちなみに、由希の仕事など既に調べがついている筈なのだが、どういうつもりで由希を見逃しているのかは、所詮二十歳そこそこの由希には、わからない。 「...」 「...」 「元気そうで何よりだよ」 「え...」 「いや、君が大学を辞めたって聞いてね、心配してたんだよ」 由希には、この警官の考えが手に取るように判った。どうせ捕まえるつもりなのだ。それだけ理解できれば良いのに、要らないことまで理解してしまった。由希は気が狂った様に叫び、片足の体で全力で逃げた。感情の押さえ方が分からない。ドクドクと体を這いずり回る血液が恨めしくて、そのまま心臓麻痺か何かで死んでしまえたら一番いいのにと、心の中はそればっかりに支配された。 「ついてこないでよ!!」 心と体に急ブレーキをかけて、振り向いて叫んだ。涙声で、気が動転して、体の力が抜けかかっている人間独特の声だ。 「...?」 知らない中年男が目の前にいて、困惑した目で由希を見つめる。 「あ...ごめんなさい」 さっきの警官の笑顔がまだ離れてくれない。手で振り払っても、威嚇しても無駄だった。綺麗に繕った顔の口元に白い泡が纏わりつき、通り過ぎる人は皆一様に顔をしかめている。 なんとか立ち上がり、生気の無い顔でふらつきながらいつもの山へ歩いて行く。今日はなんとか終わった。
翌日、由希の家に例の警官が来た。 「今回は注意ということで済ましておきますが、次は無いと思ってください」 なんとも簡単な行政で終わった。その後、由希の部屋に警官が入ってきた。 「やあ」 「何ですか」 突き放すような口調と醒めた目線で言ったが、動じない。 「どうも、私の名前は山岡といいます」 「そりゃどうも」 「君の行動を監視する役目を受けてね、何ヶ月か一緒に行動させてもらうから」 「...」 「...」 言うまでも無く、気まずい空気が部屋を包んだ。宙を見る由希の目が、どうも変だと思いつつも、これから時間をかけて考えるということにして、胸にしまっておいた。何事も始めが肝心というわけであろうか...。由希は、いつも自分が山へ行っている事は知っているが、何をしているのかは覚えていない。なにせ、無意識のうちに、山にいるときだけ自分という感覚を見失うのだから。山道を歩きながら、ゆっくりと「自分」が出て行き、帰り道でそれを拾う。 一個人に十分な時間をかけるほど警察の仕事は暇ではないが、山岡の勤務表は終日「監視」で埋まっている。どうしても気になってしまうのだろうか。別に、怪しい薬に手を出しているわけでもないのだが、どうしてもその行動が気になるのだ。
3章終わり、4章に続きます
テーマ:オリジナル小説 - ジャンル:小説・文学
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